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Channel: 山羊さんの備忘録
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紫式部の歌の解説の付け足し

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昨日の百人一首の解説の紫式部の歌について、すこし解説を付け足しましたので、こちらにも転載しておきます。(昨日のその記事は24時間だけの公開ですので消去しています)

紫式部の歌、「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影」について、最近の高校の教科書などでは、末尾を「月かな」としているものが多いです。けれど「新古今集」や百人一首の古い写本などでは「月影」とされていますので、解説も「月影」で行わせていただきました。

「月かな」の「かな」は詠嘆の終助詞です。けれどこの歌は「それとも分かぬ間に」という心理的時間を通じて友との別れを惜しんでいるのであって、月に感動して詠んでいるわけではありません。むしろどうしてこの歌を「月かな」に変えてしまうのか、そのことの方が疑問です。そもそも普通に常識で考えて、親しい友が地方転勤で遠くに行ってしまうのに、月がでてるなー、月がきれいだなーなどと、月の話題にあえて話をすり替える理由もありません。

そもそも月は、欠けたり太ったりします。だから「めぐるもの=くりかえすもの」です。「月影」であれば、また満ちます。つまり再び友は都に帰ってくる。そういう期待があるから「月影」になるのです。それが「月かな」という感嘆では意味が通じなくなります。

その「月影」にしても、「それはきらめく月光を意味する」などと解説している本もあります。それも違います。月影というのは「きらめく月光」のことではなくて、三日月や半月などで見えなくなっている影の部分のことをいいます。その影の部分が、満月に向けてまた出てくるわけで、だから月は「めぐる」と縁語になるのです。友に、「帰ってきてもらいたいわ。いや、きっと帰ってくるわ」、そういう紫式部の思いがあるから、末尾が「月影」になるのです。「きらめく月光」では意味が通じません。わるいけれど、最近の学者さんたちは、いったい何を考えているのかと腹立たしくさえ思います。



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