和泉式部や紫式部、清少納言など、女性の歌が続きましたが、これらの歌を通じてあきらかなことは、和歌はその和歌単独で読むだけでなく、その歌の背後にある歌人の人生そのものが持つドラマのようなものを一緒に読むことで、一層の味わいが増す、ということでした。
そうした歌が続いたあとに続く今回は、「今日を限りの命ともがな」と透明な愛を詠んだ美しい女性である54番歌の儀同三司母からみた孫で「悪三位」と呼ばれる極道者になった左京大夫道雅、60番歌の小式部内侍への悪意ある中傷を跳ね返すのに一役買った風流男の権中納言定頼、そして和泉式部の友達で、夫の浮気に苦しみながらもそこから見事に這い上がり、歴史に名を残した相模の三首です。
そうした歌が続いたあとに続く今回は、「今日を限りの命ともがな」と透明な愛を詠んだ美しい女性である54番歌の儀同三司母からみた孫で「悪三位」と呼ばれる極道者になった左京大夫道雅、60番歌の小式部内侍への悪意ある中傷を跳ね返すのに一役買った風流男の権中納言定頼、そして和泉式部の友達で、夫の浮気に苦しみながらもそこから見事に這い上がり、歴史に名を残した相模の三首です。
===========
三代目の落日
63番歌 左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)
今はただ思ひ絶えなむとばかりを
人づてならでいふよしもがな
いまはたた
おもひたえなむ
とはかりを
ひとつてならて
いふよしもかな
===========
(現代語訳)
いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです。
(ことばの意味)
【今はただ】いまとなっては
【思ひ絶えなむ】想いをあきらめよう
【とばかりを】〜と、そればかりを
【人づてならで】人伝ではなく
【いふよしもがな】よし(由)は、理由とか手段/方法のことで、「言う由」は伝える方法。「もがな」は、願望です。
(解説)
この歌は、実は、53番の右大将道綱母の歌以降に続いた女流歌人たちの歌の後に配置されていることに意味があります。
歌そのものは、愛する女性と何らかの事情で離ればなれになった(別れた)男性が、その慕情を人伝ではなく、自分で直接伝えたいと思う素直な慕情です。
失恋の悲しみと、それでも相手を愛したいと思う気持ちを詠んだ、素敵な歌です。
では、なぜ歌人の名前が「左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)」と、役名が付せられているのでしょうか。
歌を詠んだのは、藤原道雅(ふじわらのみちまさ)です。
けれど歌に付された名前は、「左京大夫道雅」です。
藤原道雅の人となりは、54番歌の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)のところで少し触れてました。
儀同三司母は、有能な若者である藤原道隆と愛のひとときをすごして、この54番の歌を詠んだのですが、そのお相手の藤原道隆は、その後、グングン出世して、後には関白内大臣となります。
ある意味、貴族として最高位にまで上り詰めるわけです。
その二人の子である藤原伊周(ふじわらのこれちか)は母の愛情をいっぱい受けて育ち、若くして宮中に参内すると、またたく間に頭角をあらわして出世し、時の最高権力者で藤原氏の全盛を担った叔父の藤原道長とも、若気の身でありながら真正面から堂々と正論をもって対決するほどの名士に育ちました。
ところが対決した相手は、権勢を誇る藤原道長です。いくらなんでも相手が強すぎます。藤原伊周は地方に飛ばされて不遇をかこってしまう。
愛によって生まれた子の藤原伊周は、政治のドロドロに巻き込まれてしまいますが、それでも復活し、准大臣として再び宮中に返り咲くわけです。どれだけ優秀な人物であったかということです。
そして今回のこの63番歌は、その儀同三司母からみたら孫にあたる三代目、藤原道雅が詠んだ歌です。
歌自体はたいへんにわかりやすい歌で「いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです」というものです。
よくある、「いちばん言いたいことをあえて隠して、上の句と下の句でその一番いいたいことを示す」といった技巧も、まったく施されていません。
単に、「失恋したけれど、また逢いたい」と慕情を直接的に詠んでいるだけです。
ですから、もちろん失恋したときに「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」と口ずさんでいただいても、それはそれで(歌が直接的なものであるだけに)、良い歌といえるかもしれませんが、ではなぜ、百人一首の選者である藤原定家(ふじわらのていか)が、この歌にわざわざ「左京大夫道雅」と、詠み人の名前に職位を付したのか、それだけでは説明がつきません。
ではいったい何があったのかというと、実はこの藤原道雅の歌は、「祖父が起こし、親が守って、孫が潰す」を絵に描いたような人であったのです。
もういちどくり返しますが、祖父の道隆(みちたか)は、とても優秀な人で、努力して関白にまで登った人です。父の伊周(これちか)もまた、政争に敗れて地方に飛ばされながらも、再び准大臣(じゅんだいじん)として宮中に返り咲いた優秀な人です。
ところが祖父と父と、二代続けて宮中の大物となった家族の三代目の倅(せがれ)は、祖父と父が築いたある意味最高の環境で育ちながら、逆にとんでもなくわがままなワルに育ってしまったのです。
道雅は、14歳で元服して昇殿を許されました。
そして25歳のときには左近衛中将に出世しています。
26歳のときには、従三位に出世です。
ということは、相当優秀な若者ではあったのだろうと思います。
もちろん親の七光りも手伝ったことでしょうが、26歳で従三位になれたということは、本人がそれなりに優秀でなければ、そうそう簡単になれるものではありません。
ところが、わがまま、つまり身勝手なのです。
身勝手ということは、おのれの分をわきまえない、ということです。
道雅は、従三位となった年の9月に、第67代三条天皇の第一皇女である当子内親王(とうしないしんのう)と良い仲になってしまうのです。
このときの当子内親王は17歳です。
当時の女性としては、17歳は立派な大人の女性ですが、当子内親王は都に帰る直前まで、まる3年間を伊勢神宮の斎宮(さいぐう)を勤めていました。
斎宮というのは、簡単にいったら、ご皇室から伊勢神宮に祀られる天照大神様のために奉職する巫女(みこ)さんです。
つまり処女であり、穢れのない女性であったわけです。
父親の三条天皇は、長女である当子内親王を、まさに眼に入れても痛くないほど溺愛されていました。
これには逸話があって、当子内親王が斎宮として都を離れるとき、その出発の儀式で、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならないというしきたりがあったのに、父の三条天皇は去って行くわが娘見たさに、思わず振り返ってしまったというのです。
そこまで父親の三条天皇は、長女の当子内親王を溺愛していたのです。
そんな長女が、やっとお勤めを終えて都に帰ってきたのです。
三条天皇は、天皇を退位し、三条院となり、そして年頃となった当子内親王には「だれか良い結婚相手を」と望んでいたことは、想像に難くありません。
ところが、その当子内親王に、なんと藤原道雅が言い寄ってきて、二人が関係してしまうのです。
道雅は、もちろん家柄は良い男です。
けれど、わがままで放蕩のきらいがあります。とかく悪い噂が絶えない。
イメージ的には、たとえはすごく悪いかもしれませんが、ひところ騒ぎのあった梅宮辰夫と娘のアンナ、これと羽賀研二みたいなものかもしれません。
とにかく娘の父親のお眼鏡に適わなかったのです。
父にしてみれば、やっと神宮でのお勤めを終え、第一皇女でもあり、少しでも良い男性とめぐりあってもらいたいと心から思っていたのに、出来た相手が茶髪の不良であった、みたいなものかもしれません。
激怒した三条院は、娘の当子を母娍子のもとに引き取らせ、さらに当子と道雅の間の手引きをした乳母の中将内侍まで宮中から追放してしまいます。
周囲は、相当とりなしたようですけれど、三条院は断固として二人を許さなかったそうです。
こうして愛し合った二人は、女性の父の怒りによって仲を引き裂かれてしまいました。
そしてそのとき、道雅が詠んだ歌が、この63番歌というわけです。
かわいそうに当子内親王は、初めての彼との恋仲を引き裂かれてしまったわけです。
失意の当子内親王は、そのままショックで床に伏せってしまいました。
そしてそのまま寝たきりとなり、衰弱した当子内親王は、6年後に23歳の若さでお亡くなりになってしまうのです。
一方、別れた道雅の方はというと、横暴なところが治らず、花山法皇の皇女である上東門院女房を人に命じて夜中の路上で殺害し、遺体を野犬に食わせたり、敦明親王の雑色長小野為明を暴行して重傷を負わせたり、あるいは市中の賭場に出入りして大乱闘をしたりと、その後も乱行を続けます。
結局、わがままで横暴な人生を歩んだ道雅は、62歳で生涯を閉じるまで、「荒三位、悪三位」と世間から誹(そし)られる人生を歩むのです。
このことが、藤原道雅にとって、当子内親王との別れがショックだったためにグレのではないか。三条院はひどい人だ、と思う人がいるかもしれません。
そこですこし当時の状況を補足しておきます。
三条天皇の治世は、西暦1011年から1016年までの5年間ですが、この時代、我が国は、支那文明がから完全に決別して、我が国独自の文化文明であるシラス国つくりの真っ最中にありました。
大化の改新は、西暦646年(大化2年)の出来事ですが、このとき日本は、支那文明と完全に決別し、我が国独自の元号を定め、豪族による私的な領民や領地の支配を否定してすべてを天皇のおおみたからとするという大改革を断行しました。
ですから大化の改新の「大化」は、現代日本が用いている昭和とか平成といった元号の、いちばん最初の元号です。
それまでの日本は、支那の華夷秩序の中に組み込まれていましたから、支那皇帝の冊封を受け、元号も支那の元号を用いていました。このことは日本だけに限ったことではなく、支那の冊封国は、すべて同じです。
朝鮮などは、つい近代まで(日本が独立国とするまで)、ずっと支那の元号を用いています。
ところが大化の改新によって、日本は、支那文明と決別し、世界に向けて堂々と自国の独自元号を用い始めたのです。
これが何を意味するかと言えば、日本は、華夷秩序から決別して、独自の文明の道をすすみだした、すなわち完全な自立自尊の独立国となったということをあらわします。
そしてこれを推進したのが、後に天智天皇となる中大兄皇子であり、百人一首では1番の御製の天皇です。
そして初めて日本という国号を名乗ったのが2番の持統天皇でした。
こうして独立国となった日本は、支那と上下関係に基づく冊封国(さくほうこく)ではなく、あくまで自立自尊の独立国として、対等な交易関係を続けます。それが遣隋使、遣唐使です。
しかしその遣隋使、遣唐使も、最早、支那に学ぶべきものは何もないと、「はくし(894)に戻そう遣唐使」で、西暦894年には遣唐使も廃止し、我が国は我が国独自の価値観に基づく日本文明の構築を図ります。
こうして生まれたのが、我が国の「国風文化」です。
そして漢詩ではなく、和言葉による和歌を、初めて勅撰で編纂することになったのが『古今和歌集』で、これが西暦905年のことです。つまり遣唐使廃止後10年目の出来事です。
三条天皇のご治世は、これより百年ほどあとのことになりますが、天皇のシラス国日本という、我が国独自の文化の定着と堅持のため、あらゆる努力が払われていたのも、この時代のことです。
そうした中にあって、我が国独自の、キチンとしきたりや伝統を守ることが、正しいこととされ、天皇自らがそれを襟をただして励行することで、世に、まっすぐな統治を実現しようとしていたのが、まさにこの時代にあたるわけです。
その天皇の統治というのは、支那皇帝のように皇帝がすべてを私有し、独断専行するという統治体制(ウシハク統治)ではありません。
どこまでも、民衆を「おおみたから」とする「シラス統治」です。
そして「シラス統治」を実現するためには、ご皇室も貴族たちも、常に襟を正して民衆の模範とならなければならないという意識が、常にそこにはたらいています。
そうした時代背景にあって、もっとも忌むべきものは、家柄や財力、地位を私的に利用したり、あるいはそれによって独断専行に至ったりする、ひらたくいえば、権力のある者が、わがままに走るということが、徹底して忌み嫌われたのです。
ところが、藤原道雅には、それがわからない。
わからないから、自分の目的のためには手段を選ばない。対立する者があれば、平気で人に命じて、その相手を殺害する。そういう男であることを、三条院は見抜いたからこそ、娘との交際を拒否したわけです。
それによって娘は、体を壊し、亡くなってしまいました。
けれど、たとえ娘を亡くしても、ご政道によこしまなものを取り込んではならないという強い覚悟と信念をお持ちだったからこそ、三条院は心を鬼にして、二人を別れさせたのです。
娘の当子内親王も辛かったと思います。
けれど、父の三条院は、もっとお辛かったのではないでしょうか。
百人一首は、この古今和歌集からの歌が多数はいっているのですけれど、要するに三条天皇をはじめとしたこの時代、わたしたちの祖先は、日本という国が、本当の意味でのシラス国、ほんとうの意味での民衆のための統治ができる国を築くために、さまざまなガマンや努力が積み重ねていたのです。
そのひとつが、宮中で烏帽子をはたき落しただけで、どんなに優秀であっても生涯、地方に飛ばされたり(51番歌・藤原実方)、あるいは、和歌を通じて読み手の真意をくみ取り、そこから互いの思いやりの心を養うという訓練をしたり、あるいは男女とも人として対等であるということを明確にするために、多くの女流文学を世に出したりと、まさにさまざまな努力を続けていたわけです。
けれど残念なことに、藤原道雅には、それがわからない。
ただ富と地位と家柄に甘んじる。平気で悪行を行う。
結果、三代で家を失ってしまう。
たとえどんなに恵まれた環境にあったとしても、常に謙虚さを失わず、立派に生きることを心がけていかなければ、結果、すべてを失うことになってしまうのだということを、この歌は、後世を生きる私たちに語りかけてくれているように思います。
ちなみに、ここまでの解釈は、「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」という歌そのものから、かなり逸脱しています。歌そのものではなくて、その歌の背後にあるドラマのお話です。
けれども、53番の右大将道綱母からはじまる儀同三司母や和泉式部、あるいは紫式部や小式部内侍、あるいは清少納言など、女流歌人の歌を順番に鑑賞してきた私たちには、「左京大夫道雅」と書かれたこの63番の歌が、ただ歌だけでなく、その歌の背後にある歌人の生涯というドラマをも含めて鑑賞することに、おそらく違和感はないものと思います。
逆にもし、この歌が、女流歌人たち以前の順番ところにあったら、どうして歌の背後のドラマを一緒に考えなければならないのかが、見えて来ない。
そういう意味で、百人一首の選者である藤原定家は、実に見事に歌を配置していると感心します。
三代目の落日
63番歌 左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)
今はただ思ひ絶えなむとばかりを
人づてならでいふよしもがな
いまはたた
おもひたえなむ
とはかりを
ひとつてならて
いふよしもかな
===========
(現代語訳)
いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです。
(ことばの意味)
【今はただ】いまとなっては
【思ひ絶えなむ】想いをあきらめよう
【とばかりを】〜と、そればかりを
【人づてならで】人伝ではなく
【いふよしもがな】よし(由)は、理由とか手段/方法のことで、「言う由」は伝える方法。「もがな」は、願望です。
(解説)
この歌は、実は、53番の右大将道綱母の歌以降に続いた女流歌人たちの歌の後に配置されていることに意味があります。
歌そのものは、愛する女性と何らかの事情で離ればなれになった(別れた)男性が、その慕情を人伝ではなく、自分で直接伝えたいと思う素直な慕情です。
失恋の悲しみと、それでも相手を愛したいと思う気持ちを詠んだ、素敵な歌です。
では、なぜ歌人の名前が「左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)」と、役名が付せられているのでしょうか。
歌を詠んだのは、藤原道雅(ふじわらのみちまさ)です。
けれど歌に付された名前は、「左京大夫道雅」です。
藤原道雅の人となりは、54番歌の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)のところで少し触れてました。
儀同三司母は、有能な若者である藤原道隆と愛のひとときをすごして、この54番の歌を詠んだのですが、そのお相手の藤原道隆は、その後、グングン出世して、後には関白内大臣となります。
ある意味、貴族として最高位にまで上り詰めるわけです。
その二人の子である藤原伊周(ふじわらのこれちか)は母の愛情をいっぱい受けて育ち、若くして宮中に参内すると、またたく間に頭角をあらわして出世し、時の最高権力者で藤原氏の全盛を担った叔父の藤原道長とも、若気の身でありながら真正面から堂々と正論をもって対決するほどの名士に育ちました。
ところが対決した相手は、権勢を誇る藤原道長です。いくらなんでも相手が強すぎます。藤原伊周は地方に飛ばされて不遇をかこってしまう。
愛によって生まれた子の藤原伊周は、政治のドロドロに巻き込まれてしまいますが、それでも復活し、准大臣として再び宮中に返り咲くわけです。どれだけ優秀な人物であったかということです。
そして今回のこの63番歌は、その儀同三司母からみたら孫にあたる三代目、藤原道雅が詠んだ歌です。
歌自体はたいへんにわかりやすい歌で「いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです」というものです。
よくある、「いちばん言いたいことをあえて隠して、上の句と下の句でその一番いいたいことを示す」といった技巧も、まったく施されていません。
単に、「失恋したけれど、また逢いたい」と慕情を直接的に詠んでいるだけです。
ですから、もちろん失恋したときに「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」と口ずさんでいただいても、それはそれで(歌が直接的なものであるだけに)、良い歌といえるかもしれませんが、ではなぜ、百人一首の選者である藤原定家(ふじわらのていか)が、この歌にわざわざ「左京大夫道雅」と、詠み人の名前に職位を付したのか、それだけでは説明がつきません。
ではいったい何があったのかというと、実はこの藤原道雅の歌は、「祖父が起こし、親が守って、孫が潰す」を絵に描いたような人であったのです。
もういちどくり返しますが、祖父の道隆(みちたか)は、とても優秀な人で、努力して関白にまで登った人です。父の伊周(これちか)もまた、政争に敗れて地方に飛ばされながらも、再び准大臣(じゅんだいじん)として宮中に返り咲いた優秀な人です。
ところが祖父と父と、二代続けて宮中の大物となった家族の三代目の倅(せがれ)は、祖父と父が築いたある意味最高の環境で育ちながら、逆にとんでもなくわがままなワルに育ってしまったのです。
道雅は、14歳で元服して昇殿を許されました。
そして25歳のときには左近衛中将に出世しています。
26歳のときには、従三位に出世です。
ということは、相当優秀な若者ではあったのだろうと思います。
もちろん親の七光りも手伝ったことでしょうが、26歳で従三位になれたということは、本人がそれなりに優秀でなければ、そうそう簡単になれるものではありません。
ところが、わがまま、つまり身勝手なのです。
身勝手ということは、おのれの分をわきまえない、ということです。
道雅は、従三位となった年の9月に、第67代三条天皇の第一皇女である当子内親王(とうしないしんのう)と良い仲になってしまうのです。
このときの当子内親王は17歳です。
当時の女性としては、17歳は立派な大人の女性ですが、当子内親王は都に帰る直前まで、まる3年間を伊勢神宮の斎宮(さいぐう)を勤めていました。
斎宮というのは、簡単にいったら、ご皇室から伊勢神宮に祀られる天照大神様のために奉職する巫女(みこ)さんです。
つまり処女であり、穢れのない女性であったわけです。
父親の三条天皇は、長女である当子内親王を、まさに眼に入れても痛くないほど溺愛されていました。
これには逸話があって、当子内親王が斎宮として都を離れるとき、その出発の儀式で、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならないというしきたりがあったのに、父の三条天皇は去って行くわが娘見たさに、思わず振り返ってしまったというのです。
そこまで父親の三条天皇は、長女の当子内親王を溺愛していたのです。
そんな長女が、やっとお勤めを終えて都に帰ってきたのです。
三条天皇は、天皇を退位し、三条院となり、そして年頃となった当子内親王には「だれか良い結婚相手を」と望んでいたことは、想像に難くありません。
ところが、その当子内親王に、なんと藤原道雅が言い寄ってきて、二人が関係してしまうのです。
道雅は、もちろん家柄は良い男です。
けれど、わがままで放蕩のきらいがあります。とかく悪い噂が絶えない。
イメージ的には、たとえはすごく悪いかもしれませんが、ひところ騒ぎのあった梅宮辰夫と娘のアンナ、これと羽賀研二みたいなものかもしれません。
とにかく娘の父親のお眼鏡に適わなかったのです。
父にしてみれば、やっと神宮でのお勤めを終え、第一皇女でもあり、少しでも良い男性とめぐりあってもらいたいと心から思っていたのに、出来た相手が茶髪の不良であった、みたいなものかもしれません。
激怒した三条院は、娘の当子を母娍子のもとに引き取らせ、さらに当子と道雅の間の手引きをした乳母の中将内侍まで宮中から追放してしまいます。
周囲は、相当とりなしたようですけれど、三条院は断固として二人を許さなかったそうです。
こうして愛し合った二人は、女性の父の怒りによって仲を引き裂かれてしまいました。
そしてそのとき、道雅が詠んだ歌が、この63番歌というわけです。
かわいそうに当子内親王は、初めての彼との恋仲を引き裂かれてしまったわけです。
失意の当子内親王は、そのままショックで床に伏せってしまいました。
そしてそのまま寝たきりとなり、衰弱した当子内親王は、6年後に23歳の若さでお亡くなりになってしまうのです。
一方、別れた道雅の方はというと、横暴なところが治らず、花山法皇の皇女である上東門院女房を人に命じて夜中の路上で殺害し、遺体を野犬に食わせたり、敦明親王の雑色長小野為明を暴行して重傷を負わせたり、あるいは市中の賭場に出入りして大乱闘をしたりと、その後も乱行を続けます。
結局、わがままで横暴な人生を歩んだ道雅は、62歳で生涯を閉じるまで、「荒三位、悪三位」と世間から誹(そし)られる人生を歩むのです。
このことが、藤原道雅にとって、当子内親王との別れがショックだったためにグレのではないか。三条院はひどい人だ、と思う人がいるかもしれません。
そこですこし当時の状況を補足しておきます。
三条天皇の治世は、西暦1011年から1016年までの5年間ですが、この時代、我が国は、支那文明がから完全に決別して、我が国独自の文化文明であるシラス国つくりの真っ最中にありました。
大化の改新は、西暦646年(大化2年)の出来事ですが、このとき日本は、支那文明と完全に決別し、我が国独自の元号を定め、豪族による私的な領民や領地の支配を否定してすべてを天皇のおおみたからとするという大改革を断行しました。
ですから大化の改新の「大化」は、現代日本が用いている昭和とか平成といった元号の、いちばん最初の元号です。
それまでの日本は、支那の華夷秩序の中に組み込まれていましたから、支那皇帝の冊封を受け、元号も支那の元号を用いていました。このことは日本だけに限ったことではなく、支那の冊封国は、すべて同じです。
朝鮮などは、つい近代まで(日本が独立国とするまで)、ずっと支那の元号を用いています。
ところが大化の改新によって、日本は、支那文明と決別し、世界に向けて堂々と自国の独自元号を用い始めたのです。
これが何を意味するかと言えば、日本は、華夷秩序から決別して、独自の文明の道をすすみだした、すなわち完全な自立自尊の独立国となったということをあらわします。
そしてこれを推進したのが、後に天智天皇となる中大兄皇子であり、百人一首では1番の御製の天皇です。
そして初めて日本という国号を名乗ったのが2番の持統天皇でした。
こうして独立国となった日本は、支那と上下関係に基づく冊封国(さくほうこく)ではなく、あくまで自立自尊の独立国として、対等な交易関係を続けます。それが遣隋使、遣唐使です。
しかしその遣隋使、遣唐使も、最早、支那に学ぶべきものは何もないと、「はくし(894)に戻そう遣唐使」で、西暦894年には遣唐使も廃止し、我が国は我が国独自の価値観に基づく日本文明の構築を図ります。
こうして生まれたのが、我が国の「国風文化」です。
そして漢詩ではなく、和言葉による和歌を、初めて勅撰で編纂することになったのが『古今和歌集』で、これが西暦905年のことです。つまり遣唐使廃止後10年目の出来事です。
三条天皇のご治世は、これより百年ほどあとのことになりますが、天皇のシラス国日本という、我が国独自の文化の定着と堅持のため、あらゆる努力が払われていたのも、この時代のことです。
そうした中にあって、我が国独自の、キチンとしきたりや伝統を守ることが、正しいこととされ、天皇自らがそれを襟をただして励行することで、世に、まっすぐな統治を実現しようとしていたのが、まさにこの時代にあたるわけです。
その天皇の統治というのは、支那皇帝のように皇帝がすべてを私有し、独断専行するという統治体制(ウシハク統治)ではありません。
どこまでも、民衆を「おおみたから」とする「シラス統治」です。
そして「シラス統治」を実現するためには、ご皇室も貴族たちも、常に襟を正して民衆の模範とならなければならないという意識が、常にそこにはたらいています。
そうした時代背景にあって、もっとも忌むべきものは、家柄や財力、地位を私的に利用したり、あるいはそれによって独断専行に至ったりする、ひらたくいえば、権力のある者が、わがままに走るということが、徹底して忌み嫌われたのです。
ところが、藤原道雅には、それがわからない。
わからないから、自分の目的のためには手段を選ばない。対立する者があれば、平気で人に命じて、その相手を殺害する。そういう男であることを、三条院は見抜いたからこそ、娘との交際を拒否したわけです。
それによって娘は、体を壊し、亡くなってしまいました。
けれど、たとえ娘を亡くしても、ご政道によこしまなものを取り込んではならないという強い覚悟と信念をお持ちだったからこそ、三条院は心を鬼にして、二人を別れさせたのです。
娘の当子内親王も辛かったと思います。
けれど、父の三条院は、もっとお辛かったのではないでしょうか。
百人一首は、この古今和歌集からの歌が多数はいっているのですけれど、要するに三条天皇をはじめとしたこの時代、わたしたちの祖先は、日本という国が、本当の意味でのシラス国、ほんとうの意味での民衆のための統治ができる国を築くために、さまざまなガマンや努力が積み重ねていたのです。
そのひとつが、宮中で烏帽子をはたき落しただけで、どんなに優秀であっても生涯、地方に飛ばされたり(51番歌・藤原実方)、あるいは、和歌を通じて読み手の真意をくみ取り、そこから互いの思いやりの心を養うという訓練をしたり、あるいは男女とも人として対等であるということを明確にするために、多くの女流文学を世に出したりと、まさにさまざまな努力を続けていたわけです。
けれど残念なことに、藤原道雅には、それがわからない。
ただ富と地位と家柄に甘んじる。平気で悪行を行う。
結果、三代で家を失ってしまう。
たとえどんなに恵まれた環境にあったとしても、常に謙虚さを失わず、立派に生きることを心がけていかなければ、結果、すべてを失うことになってしまうのだということを、この歌は、後世を生きる私たちに語りかけてくれているように思います。
ちなみに、ここまでの解釈は、「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」という歌そのものから、かなり逸脱しています。歌そのものではなくて、その歌の背後にあるドラマのお話です。
けれども、53番の右大将道綱母からはじまる儀同三司母や和泉式部、あるいは紫式部や小式部内侍、あるいは清少納言など、女流歌人の歌を順番に鑑賞してきた私たちには、「左京大夫道雅」と書かれたこの63番の歌が、ただ歌だけでなく、その歌の背後にある歌人の生涯というドラマをも含めて鑑賞することに、おそらく違和感はないものと思います。
逆にもし、この歌が、女流歌人たち以前の順番ところにあったら、どうして歌の背後のドラマを一緒に考えなければならないのかが、見えて来ない。
そういう意味で、百人一首の選者である藤原定家は、実に見事に歌を配置していると感心します。