動画のような叙景歌
64番歌 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
あらはれわたる瀬々の網代木
あさほらけ
うちのかはきり
たえたえに
あらはれわたる
せせのあしろき
===========
(現代語訳)
夜が明けるころ、宇治川の川面にたちこめていた霧がすこしずつ晴れて来て、霧の間から瀬に仕掛けられた網を留める杭が、だんだんに見えてきます。
(ことば)
【朝ぼらけ】夜がしらじらと明けてくる頃。
【宇治の川】京都府宇治市のあたりの宇治川。
【川霧】夜明け頃、川にかかる深い霧
【たえだえに】切れ切れに。
【瀬々の】浅瀬にから浅瀬にかけて橋渡した様子
【網代木】川魚を漁るための仕掛け網と、それを橋渡して留めた木の杭(くい)
(解説)
この歌を詠んだ権中納言定頼は、60番歌で小式部内侍にやり込められた彼氏の藤原定頼です。
後々の世まで、小式部内侍とのやりとりから、軽薄な人物と揶揄された藤原定頼ですが、家柄、血統とも良く、容姿端麗な色男で、しかも書や誦経に優れた風流人だった人物です。
この歌には「どなたかのお伴で、宇治にまかりこした際に詠んだ歌です」という歌詞があります。
早朝、まさに夜明け頃、宇治川に深い霧がかかり、その霧がだんだん晴れて来て、川のあちこちに仕掛けられた網の、留め杭が、川面にすこしずつ見えてくる。
そんな情景を、ありのままに詠んだ歌で、これを叙景歌(じょけいか)といいます。
まるで、クラシックの管弦楽に合わせて、川面の霧が少しずつ晴れてきて、静かに進む時間の中に、だんだんに風景が見えてくる。
そんな風情のある情景を、そのまま31文字の歌のなかに押し込めています。
そこに特に深い意味はありません。
上の句と下の句で、何か別に言いたいことがあって、というものでもありません。
純粋に、美しい早朝のゆるやかな時間の流れを、詠んでいます。
百人一首の選者の藤原定家は、歌のもつひとつの可能性として、このように短い言葉で美しい情景を詠むことができるという意味でこの歌を紹介していますが、もうひとつ、この歌を詠んだ歌人の名前を藤原定頼としないで、あえて権中納言定頼とすることによって、先ほどの63番歌の左京大夫道雅と、実に巧妙な対比をしています。
63番歌の藤原道雅は、悪三位と呼ばれたいわゆる放蕩人でした。三条院の怒りを買い、世間でも悪三位とののしられた三代目でした。
これに対し64番の藤原定頼は、人間が軽く、小式部内侍にさえ簡単にあしらわれるほどの男ではありましたが、悪人ではないのです。
きわめて善良な人物で、なんの悪意もない。頭も良いし、家柄も良いし、血筋も良い。
ただ、人間が軽いだけです。
けれど、軽いことを本人もよく自覚していて、政治には首を突っ込まない。
その代わり、管楽や読経、あるいは書道に打ち込み、そういった芸術の分野で、ひとかたならぬ実力を発揮して、生涯をまっとうしています。
というか藤原定頼は、60番歌の小式部内侍(和泉式部の娘)と関係しただけでなく、58番歌の大弐三位(紫式部の娘)とも関係し、さらには次の65番歌の女流名歌人である相模(さがみ)とも関係を持つなど、うらやましいほどのモテ男ぶりです。
63番の悪三位・藤原道雅も、64番の藤原定頼も、どちらも家柄も血統も良く、財力に恵まれ、頭も良い御子息です。
けれど道雅が、わがままで乱暴なところがあったのに対し、定頼は少々軽いけれど、その分、あえて欲をかかずに風流の道へと走りました。
もっと単純に図式化すれば、道雅は乱行に走り、定頼は風雅に走ったわけです。
そしてその結果、道雅は愛した当子内親王は早世し、定頼は、政治的には何の功績もなかったけれど、後世に残る素晴らしい書と、この64番歌のような「動きのある叙景歌」を遺しました。
百人一首の選者の藤原定家は、定頼の名前に「権中納言」と職名を付しました。
貴人の家に生まれたからといって、必ずしも、尊い生涯を送れるわけではないし、いくら頭が良くても、政治的な貢献ができるというわけでもない。
ただ、定頼が職の上では功績はなかったにせよ、貴族としてそれなりに立派な歌や書を遺したこと、そのことを悪三位と誹られた道雅との対比によって、分をわきまえるということの大切さを、浮き彫りにしてくれているように思います。
そしてそういうことを実は言いたかったのだということを、藤原定家は、次の相模の「名こそ惜しけれ」の歌で、さらに明確にしています。
64番歌 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
あらはれわたる瀬々の網代木
あさほらけ
うちのかはきり
たえたえに
あらはれわたる
せせのあしろき
===========
(現代語訳)
夜が明けるころ、宇治川の川面にたちこめていた霧がすこしずつ晴れて来て、霧の間から瀬に仕掛けられた網を留める杭が、だんだんに見えてきます。
(ことば)
【朝ぼらけ】夜がしらじらと明けてくる頃。
【宇治の川】京都府宇治市のあたりの宇治川。
【川霧】夜明け頃、川にかかる深い霧
【たえだえに】切れ切れに。
【瀬々の】浅瀬にから浅瀬にかけて橋渡した様子
【網代木】川魚を漁るための仕掛け網と、それを橋渡して留めた木の杭(くい)
(解説)
この歌を詠んだ権中納言定頼は、60番歌で小式部内侍にやり込められた彼氏の藤原定頼です。
後々の世まで、小式部内侍とのやりとりから、軽薄な人物と揶揄された藤原定頼ですが、家柄、血統とも良く、容姿端麗な色男で、しかも書や誦経に優れた風流人だった人物です。
この歌には「どなたかのお伴で、宇治にまかりこした際に詠んだ歌です」という歌詞があります。
早朝、まさに夜明け頃、宇治川に深い霧がかかり、その霧がだんだん晴れて来て、川のあちこちに仕掛けられた網の、留め杭が、川面にすこしずつ見えてくる。
そんな情景を、ありのままに詠んだ歌で、これを叙景歌(じょけいか)といいます。
まるで、クラシックの管弦楽に合わせて、川面の霧が少しずつ晴れてきて、静かに進む時間の中に、だんだんに風景が見えてくる。
そんな風情のある情景を、そのまま31文字の歌のなかに押し込めています。
そこに特に深い意味はありません。
上の句と下の句で、何か別に言いたいことがあって、というものでもありません。
純粋に、美しい早朝のゆるやかな時間の流れを、詠んでいます。
百人一首の選者の藤原定家は、歌のもつひとつの可能性として、このように短い言葉で美しい情景を詠むことができるという意味でこの歌を紹介していますが、もうひとつ、この歌を詠んだ歌人の名前を藤原定頼としないで、あえて権中納言定頼とすることによって、先ほどの63番歌の左京大夫道雅と、実に巧妙な対比をしています。
63番歌の藤原道雅は、悪三位と呼ばれたいわゆる放蕩人でした。三条院の怒りを買い、世間でも悪三位とののしられた三代目でした。
これに対し64番の藤原定頼は、人間が軽く、小式部内侍にさえ簡単にあしらわれるほどの男ではありましたが、悪人ではないのです。
きわめて善良な人物で、なんの悪意もない。頭も良いし、家柄も良いし、血筋も良い。
ただ、人間が軽いだけです。
けれど、軽いことを本人もよく自覚していて、政治には首を突っ込まない。
その代わり、管楽や読経、あるいは書道に打ち込み、そういった芸術の分野で、ひとかたならぬ実力を発揮して、生涯をまっとうしています。
というか藤原定頼は、60番歌の小式部内侍(和泉式部の娘)と関係しただけでなく、58番歌の大弐三位(紫式部の娘)とも関係し、さらには次の65番歌の女流名歌人である相模(さがみ)とも関係を持つなど、うらやましいほどのモテ男ぶりです。
63番の悪三位・藤原道雅も、64番の藤原定頼も、どちらも家柄も血統も良く、財力に恵まれ、頭も良い御子息です。
けれど道雅が、わがままで乱暴なところがあったのに対し、定頼は少々軽いけれど、その分、あえて欲をかかずに風流の道へと走りました。
もっと単純に図式化すれば、道雅は乱行に走り、定頼は風雅に走ったわけです。
そしてその結果、道雅は愛した当子内親王は早世し、定頼は、政治的には何の功績もなかったけれど、後世に残る素晴らしい書と、この64番歌のような「動きのある叙景歌」を遺しました。
百人一首の選者の藤原定家は、定頼の名前に「権中納言」と職名を付しました。
貴人の家に生まれたからといって、必ずしも、尊い生涯を送れるわけではないし、いくら頭が良くても、政治的な貢献ができるというわけでもない。
ただ、定頼が職の上では功績はなかったにせよ、貴族としてそれなりに立派な歌や書を遺したこと、そのことを悪三位と誹られた道雅との対比によって、分をわきまえるということの大切さを、浮き彫りにしてくれているように思います。
そしてそういうことを実は言いたかったのだということを、藤原定家は、次の相模の「名こそ惜しけれ」の歌で、さらに明確にしています。