共に生きることを大切にした気丈な妻
65番歌 相模(さがみ)
恨みわび干さぬ袖だにあるものを
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
うらみわひ
ほさぬそてたに
あるものを
こひにくちなむ
なこそをしけれ
===========
(現代語訳)
恨んで落胆して、ただ泣き明かして袖が乾くひまもありません。恋のために身が破綻して朽ちて行きそうですが、それでも名が惜しいのです。
(ことば)
【恨みわび】恨んで落胆して
【干さぬ袖】涙で濡れたままになっている袖
【だに】〜でさえ
【恋に朽ちなむ】恋によって朽ちてしまう
(解説)
相模というのは、和泉式部と仲の良かった女性で、夫の大江公資(おおえきみより)が相模守であったため、相模(さがみ)と呼ばれるようになった女性です。
ちなみに64番歌の藤原定頼は、この相模にもちょっかいを出してフラレています。関係したという話もあり、どっちがホントかはわかりません。
まあ、そんなことはどうでもよいとして、この歌の解釈について、歌の字面に書いてあることの額面通りというか、最近の多くの解説書では、要約すると「相模が誰か男性に恋をしていて、その恋が破綻して口惜しがっているところへ、さらに追い打ちをかけるように世間で自分のことを悪く言われ、そのことによって”自分の”名誉が削がれて行くことが悔しくて詠んだ歌」といった意味に解釈しているものが多いようです。
もちろんそういう見方もできようかと思います。
「名こそ惜しけれ」を、自分の名誉を惜しんでいると解釈しているわけですが、ただ、数々の歌会に招かれた当代一流の女流歌人とされた相模が、そのような自分の都合ばかりを主張するようなあわれな女性だったのでしょうか。
当時の歌会というのは、何度も書いていますが、いまで言ったら大晦日の紅白歌合戦のような催しです。
しかもそれが天皇の前で行われる公式な式典であり、大イベントであったわけです。
そうした席ですから、観客として臨場させていただけるだけでも名誉なことなら、歌人として歌を詠む人、つまり紅白歌合戦でいったら、歌手として壇上に立つ人ということは、それが公式な天皇の催しであるだけに、ただ歌がうまいとかそういうことではなしに、誰が見ても人格識見とも立派な人であり、しかも高い教養人であることが求められた人であったわけです。
そういう席に呼ばれる相模ですから、自分の名誉が惜しいのだ、という解釈も、もちろん、それはそれで成り立つかもしれません。
しかし、彼女は上の句で、「恨みわび干さぬ袖だにある」と詠んでいるのです。
これは、泣いて泣いて、どうしようもなく泣き明かして悲しみに沈み、涙で袖が乾くひまもない、ということです。
その涙は、自分の名誉のことなのでしょうか。
彼女は、そのような「自分のこと」しか眼中にない、そんな自分勝手な、自分のことしか考えないような人だったのでしょうか。
果たしてそのような、自分のことしか考えないような身勝手な女性が、たかが・・・あえて「たかが」と書かせていただきますが、たかが地方長官の妻にすぎない身分でありながら、わざわざ歌会に招かれるでしょうか。
そこは、並みいる高官たちが集う公式の国をあげての大イベントの席なのです。
実は相模は、大江公資(おおえのきみより)の妻なのですが、この夫は、たいへんな浮気性であったことが伝えられています。
任地の相模国(いまの神奈川県)には、妻の相模を伴って夫婦で赴任したのですが、現地で別な女性とねんごろになっています。
そのため夫婦仲が悪くなってしまうのですが、この後、いったん帰京し、今度は遠江守として遠州(いまの静岡県浜松市)に赴任したときは、妻である相模を都に残したまま、別な女性を伴って任地に向かっています。
要するに相模は、夫の浮気に悩まされ続けていたのです。
彼女は最初の任地の相模の国で、夫の浮気をなんとか沈めたいと、百首の歌を詠んで正月に伊豆走湯権現の社頭に埋めています。後世でいったら、御百度参りのようなものであったのかもしれません。
ところがこの百首の歌に対して、4月になって権現様からの返事が来ましたといって、相模の詠んだ百首の歌に、それぞれ呼応するように、返歌が相模に返されています。
一例を申し上げると、
相模の歌に、「お慕いしているのですから、私以外の女性を愛さないでほしいのです」とあれば、これに対する返歌として、「何を言うか。君より他に愛する女性はいませんよ」と書いてある。
おそらくは、妻が浮気封じに権現様に歌を奉納したという話を家人から聞きつけた旦那が、これはヤバイと、歌を取り寄せ、一首ごとに返事をしたため、それが「権現様からの返事ですよ」といって、相模に渡るように仕掛けたのでしょう。内容からしたら、そうとしか思えないものです。
それに対し、相模もたいした女性です。
百首の返歌に、またひとつひとつ、つまり百首の返歌を書いているのです。
さきほどのやりとりなら、相模の返事は、「地元の女性に手を出していることを、私はちゃんと知っているし、そういうふしだらな女性は、摘む人がたえない(別な男性のもとにも走る)ものと、わきまえてくださいな」と書いているわけです。
妻として、夫の浮気に悩まされ続けながらも夫を愛し、夫の浮気をなんとかとどめたいと願ういたいけな相模の気持ちが、とても悲しく感じられます。
この65番のこの歌は、まさに相模が、そういう悩みの中にあったときに詠んだ歌です。
つまり「恨みわび干さぬ袖だにあるものを」で、どうして恨んだり落胆したりして、着物の袖が乾かないほど毎日泣き濡れているのかといえば、その理由は夫の浮気にあるわけです。
そして下の句では「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」と詠んでいます。
一般的な通釈では、「恋に朽ちなむ」は、自分が、つまり相模国自身が別な男性に恋をしていて、「相模が夫以外の男性に恋していて、その恋に燃えすぎていて、このままでは相模自身が燃え朽ちてしまう」と解釈しているようですが、どうかんがえても、その解釈には無理があるように、私は思います。
夫の浮気に悩み苦しみ、毎日泣き暮らしているという悲しい状態にある妻が、別な男性と浮気をして燃えているのでしょうか。誰がどう考えても、これは「おかしな解釈」としかいえないのではないでしょうか。
そうではなくて、「恋に朽ちる」というのは、夫自身のことです。
夫が浮気のために、朽ち果ててしまう。そのことを、相模は涙に濡れた眼で、真剣に夫に訴えようとしているのです。
狭い世間なのです。
まして、相模守ともなれば、地域の著名人(いまでいったら県知事)であり公人です。
文脈からすれば、浮気の相手は複数です。
公人の身でありながら、複数の現地の女性に手を出し、浮気の虫が絶えない。
「そんなことでは、天子様からいただいた相模守の職責にも影響がでてしまうのではないですか?」
つまり、「浮気のために、あなたの名前が朽ちてしまうのではないですか?」
そして「名こそ惜しけれ」と続くわけです。
つまりここでいう「名こそ惜しい」というのは、「あなたの名前にも、大江家という家名にも泥を塗ることになってしまうのではありませんか?」と言っているのです。
この時代男性が他の女性と関係したり、他の女性の肉体的を求めることは、それを商売にする女性たちもいたことですから、ある程度は妻帯者であっても公認です。
けれど、それがあまりに度が過ぎていたり、官邸の女官たちのような素人女性にまで次々に手を出すとなれば、治めるべき地元の人たちからの反感を買ってしまいます。つまり、公務にも支障が出るようになってしまうのです。
ところが夫の大江公資(きみより)は、それを知ってか知らずしてか、浮気の虫がたえず、次々に女性に手をつける。地元の信用もなくす。
それは、相模守に任官してくれた宮中に対しても申し訳のつかないことですし、そのことから守護職を解かれるようなことでもあれば、それは大江家のご先祖様にも申し訳のたたないことです。
上の句で「恨みわびほさぬ袖だにあるものを」には、ただ浮気されて悲しくて涙を流しているということだけではなくて、「そのことはある程度あきらめもするけれど」という語感があります。
そして下の句の「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」は、そういう夫であっても、その夫をどこまでも支えていこうとする妻としての相模の心、すなわちひとつの夫婦として、世の中に対する公職という責任をまっとうしていこうとする、悲しいまでの健気な相模の心が、そこに詠み込まれているわけです。
県知事という立派な公職にありながら、その職位を利用して周囲の女性たちと次々に関係をもってしまう夫、そんな夫を持ち、涙に暮れながらも、必死になって家を支えよう、夫に眼を覚まさせようとする健気な妻、そういう対比が、実はこの歌の骨子となっているのです。
つまりこの歌は、夫の浮気にただなよなよと泣いている弱々しい妻の愚痴歌などではぜんぜんなくて(そんな歌なら百人一首に選ばれません)、夫の浮気に苦しみながらも、夫を思い、国守としての夫職責を支え、夫婦相和して共に強く生きようとした気丈な女性の歌なのです。
結局、相模国の守護の任を解かれて都に戻った夫と、相模は離婚しました。
そして、再び中央を追われ、地方任務に飛ばされた夫に対し、相模は一条天皇の第一皇女である脩子内親王(しゅうしないしんのう)のもとへの出仕を命ぜられ、和泉式部らとも親しく交遊し、長元8年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」や、長久2年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、あるいは永承4年(1049)、6年の内裏の歌合会、永承5年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」や「祐子内親王歌合」、さらには天喜4年(1056)の「皇后宮寛子様春秋歌合」など、多くの歌合に歌人として招かれています。
つまり彼女は、中央において、時代を代表する女流歌人としての名声を不動のものにしていくのです。
ここまでくると、「名こそ惜しけれ」の意味も明確です。
「名こそ惜しけれ」は、自分の名誉とか、自分の名を上げるとか、そういう個人の栄達や欲望、あるいは名誉の延長線上のものではないのです。
相模が言っている「名こそ惜しけれ」は、あくまで、家の名誉であり、夫の名誉なのです。
そしてその家には、家人たちもいます。親兄弟もいる。自分のことではないのです。
つまり「名こそ惜しけれ」は、自分ではなく、夫や家、あるいは周囲にいる人たちみんなの名誉について、「名こそ惜しけれ」と詠んでいます。
そして、自分のことではなくて、みんなのことを常に優先した相模は、女性の身でありながらキャリアウーマンとして栄達し、自分のことしか頭になかった旦那は、結局地方まわりの低い地位のままで一生を終わりました。
我が名を惜しむ。我が名誉を惜しむという思想は、手前勝手な傲慢を生みます。
けれど、どこまでも「みんな」を気遣う心の先には、常に謙虚と「みんなからの支え」があります。
そこに「シラス」と「ウシハク」の違いもあります。
この歌は、実は、そのこと、とても大事なそのことに気付かせてくれる歌なのです。
だからこそ、この歌は名歌とされ、百人一首に選ばれ、また千年経った今でも人々に愛され伝えられているのです。
さて次回は、前大僧正行尊に、相模と同様「名こそ惜しけれ」と詠んだ女流歌人の周防内侍、そして今日ご紹介した63番歌の左京大夫道雅を「泣いて馬謖を斬る」心で娘と引き離した三条院の歌です。
お楽しみに。
65番歌 相模(さがみ)
恨みわび干さぬ袖だにあるものを
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
うらみわひ
ほさぬそてたに
あるものを
こひにくちなむ
なこそをしけれ
===========
(現代語訳)
恨んで落胆して、ただ泣き明かして袖が乾くひまもありません。恋のために身が破綻して朽ちて行きそうですが、それでも名が惜しいのです。
(ことば)
【恨みわび】恨んで落胆して
【干さぬ袖】涙で濡れたままになっている袖
【だに】〜でさえ
【恋に朽ちなむ】恋によって朽ちてしまう
(解説)
相模というのは、和泉式部と仲の良かった女性で、夫の大江公資(おおえきみより)が相模守であったため、相模(さがみ)と呼ばれるようになった女性です。
ちなみに64番歌の藤原定頼は、この相模にもちょっかいを出してフラレています。関係したという話もあり、どっちがホントかはわかりません。
まあ、そんなことはどうでもよいとして、この歌の解釈について、歌の字面に書いてあることの額面通りというか、最近の多くの解説書では、要約すると「相模が誰か男性に恋をしていて、その恋が破綻して口惜しがっているところへ、さらに追い打ちをかけるように世間で自分のことを悪く言われ、そのことによって”自分の”名誉が削がれて行くことが悔しくて詠んだ歌」といった意味に解釈しているものが多いようです。
もちろんそういう見方もできようかと思います。
「名こそ惜しけれ」を、自分の名誉を惜しんでいると解釈しているわけですが、ただ、数々の歌会に招かれた当代一流の女流歌人とされた相模が、そのような自分の都合ばかりを主張するようなあわれな女性だったのでしょうか。
当時の歌会というのは、何度も書いていますが、いまで言ったら大晦日の紅白歌合戦のような催しです。
しかもそれが天皇の前で行われる公式な式典であり、大イベントであったわけです。
そうした席ですから、観客として臨場させていただけるだけでも名誉なことなら、歌人として歌を詠む人、つまり紅白歌合戦でいったら、歌手として壇上に立つ人ということは、それが公式な天皇の催しであるだけに、ただ歌がうまいとかそういうことではなしに、誰が見ても人格識見とも立派な人であり、しかも高い教養人であることが求められた人であったわけです。
そういう席に呼ばれる相模ですから、自分の名誉が惜しいのだ、という解釈も、もちろん、それはそれで成り立つかもしれません。
しかし、彼女は上の句で、「恨みわび干さぬ袖だにある」と詠んでいるのです。
これは、泣いて泣いて、どうしようもなく泣き明かして悲しみに沈み、涙で袖が乾くひまもない、ということです。
その涙は、自分の名誉のことなのでしょうか。
彼女は、そのような「自分のこと」しか眼中にない、そんな自分勝手な、自分のことしか考えないような人だったのでしょうか。
果たしてそのような、自分のことしか考えないような身勝手な女性が、たかが・・・あえて「たかが」と書かせていただきますが、たかが地方長官の妻にすぎない身分でありながら、わざわざ歌会に招かれるでしょうか。
そこは、並みいる高官たちが集う公式の国をあげての大イベントの席なのです。
実は相模は、大江公資(おおえのきみより)の妻なのですが、この夫は、たいへんな浮気性であったことが伝えられています。
任地の相模国(いまの神奈川県)には、妻の相模を伴って夫婦で赴任したのですが、現地で別な女性とねんごろになっています。
そのため夫婦仲が悪くなってしまうのですが、この後、いったん帰京し、今度は遠江守として遠州(いまの静岡県浜松市)に赴任したときは、妻である相模を都に残したまま、別な女性を伴って任地に向かっています。
要するに相模は、夫の浮気に悩まされ続けていたのです。
彼女は最初の任地の相模の国で、夫の浮気をなんとか沈めたいと、百首の歌を詠んで正月に伊豆走湯権現の社頭に埋めています。後世でいったら、御百度参りのようなものであったのかもしれません。
ところがこの百首の歌に対して、4月になって権現様からの返事が来ましたといって、相模の詠んだ百首の歌に、それぞれ呼応するように、返歌が相模に返されています。
一例を申し上げると、
相模の歌に、「お慕いしているのですから、私以外の女性を愛さないでほしいのです」とあれば、これに対する返歌として、「何を言うか。君より他に愛する女性はいませんよ」と書いてある。
おそらくは、妻が浮気封じに権現様に歌を奉納したという話を家人から聞きつけた旦那が、これはヤバイと、歌を取り寄せ、一首ごとに返事をしたため、それが「権現様からの返事ですよ」といって、相模に渡るように仕掛けたのでしょう。内容からしたら、そうとしか思えないものです。
それに対し、相模もたいした女性です。
百首の返歌に、またひとつひとつ、つまり百首の返歌を書いているのです。
さきほどのやりとりなら、相模の返事は、「地元の女性に手を出していることを、私はちゃんと知っているし、そういうふしだらな女性は、摘む人がたえない(別な男性のもとにも走る)ものと、わきまえてくださいな」と書いているわけです。
妻として、夫の浮気に悩まされ続けながらも夫を愛し、夫の浮気をなんとかとどめたいと願ういたいけな相模の気持ちが、とても悲しく感じられます。
この65番のこの歌は、まさに相模が、そういう悩みの中にあったときに詠んだ歌です。
つまり「恨みわび干さぬ袖だにあるものを」で、どうして恨んだり落胆したりして、着物の袖が乾かないほど毎日泣き濡れているのかといえば、その理由は夫の浮気にあるわけです。
そして下の句では「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」と詠んでいます。
一般的な通釈では、「恋に朽ちなむ」は、自分が、つまり相模国自身が別な男性に恋をしていて、「相模が夫以外の男性に恋していて、その恋に燃えすぎていて、このままでは相模自身が燃え朽ちてしまう」と解釈しているようですが、どうかんがえても、その解釈には無理があるように、私は思います。
夫の浮気に悩み苦しみ、毎日泣き暮らしているという悲しい状態にある妻が、別な男性と浮気をして燃えているのでしょうか。誰がどう考えても、これは「おかしな解釈」としかいえないのではないでしょうか。
そうではなくて、「恋に朽ちる」というのは、夫自身のことです。
夫が浮気のために、朽ち果ててしまう。そのことを、相模は涙に濡れた眼で、真剣に夫に訴えようとしているのです。
狭い世間なのです。
まして、相模守ともなれば、地域の著名人(いまでいったら県知事)であり公人です。
文脈からすれば、浮気の相手は複数です。
公人の身でありながら、複数の現地の女性に手を出し、浮気の虫が絶えない。
「そんなことでは、天子様からいただいた相模守の職責にも影響がでてしまうのではないですか?」
つまり、「浮気のために、あなたの名前が朽ちてしまうのではないですか?」
そして「名こそ惜しけれ」と続くわけです。
つまりここでいう「名こそ惜しい」というのは、「あなたの名前にも、大江家という家名にも泥を塗ることになってしまうのではありませんか?」と言っているのです。
この時代男性が他の女性と関係したり、他の女性の肉体的を求めることは、それを商売にする女性たちもいたことですから、ある程度は妻帯者であっても公認です。
けれど、それがあまりに度が過ぎていたり、官邸の女官たちのような素人女性にまで次々に手を出すとなれば、治めるべき地元の人たちからの反感を買ってしまいます。つまり、公務にも支障が出るようになってしまうのです。
ところが夫の大江公資(きみより)は、それを知ってか知らずしてか、浮気の虫がたえず、次々に女性に手をつける。地元の信用もなくす。
それは、相模守に任官してくれた宮中に対しても申し訳のつかないことですし、そのことから守護職を解かれるようなことでもあれば、それは大江家のご先祖様にも申し訳のたたないことです。
上の句で「恨みわびほさぬ袖だにあるものを」には、ただ浮気されて悲しくて涙を流しているということだけではなくて、「そのことはある程度あきらめもするけれど」という語感があります。
そして下の句の「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」は、そういう夫であっても、その夫をどこまでも支えていこうとする妻としての相模の心、すなわちひとつの夫婦として、世の中に対する公職という責任をまっとうしていこうとする、悲しいまでの健気な相模の心が、そこに詠み込まれているわけです。
県知事という立派な公職にありながら、その職位を利用して周囲の女性たちと次々に関係をもってしまう夫、そんな夫を持ち、涙に暮れながらも、必死になって家を支えよう、夫に眼を覚まさせようとする健気な妻、そういう対比が、実はこの歌の骨子となっているのです。
つまりこの歌は、夫の浮気にただなよなよと泣いている弱々しい妻の愚痴歌などではぜんぜんなくて(そんな歌なら百人一首に選ばれません)、夫の浮気に苦しみながらも、夫を思い、国守としての夫職責を支え、夫婦相和して共に強く生きようとした気丈な女性の歌なのです。
結局、相模国の守護の任を解かれて都に戻った夫と、相模は離婚しました。
そして、再び中央を追われ、地方任務に飛ばされた夫に対し、相模は一条天皇の第一皇女である脩子内親王(しゅうしないしんのう)のもとへの出仕を命ぜられ、和泉式部らとも親しく交遊し、長元8年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」や、長久2年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、あるいは永承4年(1049)、6年の内裏の歌合会、永承5年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」や「祐子内親王歌合」、さらには天喜4年(1056)の「皇后宮寛子様春秋歌合」など、多くの歌合に歌人として招かれています。
つまり彼女は、中央において、時代を代表する女流歌人としての名声を不動のものにしていくのです。
ここまでくると、「名こそ惜しけれ」の意味も明確です。
「名こそ惜しけれ」は、自分の名誉とか、自分の名を上げるとか、そういう個人の栄達や欲望、あるいは名誉の延長線上のものではないのです。
相模が言っている「名こそ惜しけれ」は、あくまで、家の名誉であり、夫の名誉なのです。
そしてその家には、家人たちもいます。親兄弟もいる。自分のことではないのです。
つまり「名こそ惜しけれ」は、自分ではなく、夫や家、あるいは周囲にいる人たちみんなの名誉について、「名こそ惜しけれ」と詠んでいます。
そして、自分のことではなくて、みんなのことを常に優先した相模は、女性の身でありながらキャリアウーマンとして栄達し、自分のことしか頭になかった旦那は、結局地方まわりの低い地位のままで一生を終わりました。
我が名を惜しむ。我が名誉を惜しむという思想は、手前勝手な傲慢を生みます。
けれど、どこまでも「みんな」を気遣う心の先には、常に謙虚と「みんなからの支え」があります。
そこに「シラス」と「ウシハク」の違いもあります。
この歌は、実は、そのこと、とても大事なそのことに気付かせてくれる歌なのです。
だからこそ、この歌は名歌とされ、百人一首に選ばれ、また千年経った今でも人々に愛され伝えられているのです。
さて次回は、前大僧正行尊に、相模と同様「名こそ惜しけれ」と詠んだ女流歌人の周防内侍、そして今日ご紹介した63番歌の左京大夫道雅を「泣いて馬謖を斬る」心で娘と引き離した三条院の歌です。
お楽しみに。