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66番歌 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)

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一途に生きる
66番歌 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)

もろともにあはれと思え山桜
花よりほかに知る人もなし


もろともに
あはれとおもへ
やまさくら
はなよりほかに
しるひともなし
==========

(現代語訳)
山桜も自分も一緒に愛(いと)しく思っておくれ。おまえも私も、花のほかには知る人もいないのだから。

(ことば)
【もろともに】諸(もろ)ともにで、山桜も自分も一緒に、といった意味になります。
【あはれと思へ】「あはれ」は哀れという意味と、「あ・はれ」で「あ」は愛、「はれ」は晴れで、愛しいという意味が重なります。
【花よりほかに】山桜の他には。
【知る人もなし】自分(山桜)を知る人もいない。

(歌の意味と鑑賞)
百人一首は、このところ、歌人の生き様とか、その歌人にまつわるドラマを31文字の短い言葉の中にあらわした歌を続けています。
そして夫の浮気に悩んだ相模の歌の次に配置されたのが行尊(ぎょうそん)です。

行尊は、前の大僧正です。
大僧正というのは、お坊さんの中で、いちばん偉い人です。
ところがこの方、たいへんなご苦労をなさった方です。

行尊は、もともと皇族です。
ところが仏門にはいって、なんと一番厳しい修験道になるのです。
修験道といえば、奈良時代の役小角(えんのおづぬ)が創始者として有名です。
山伏(やまぶし)と言った方が、ピンと来る方もいるかもしれません。
滝に打たれたり、ありとあらゆる苦行を積んで、ある種の超能力を身につける。
作家の司馬遼太郎は、子供の頃に、この修験道の人が家にやってきたとき、目の前で眼から火花を出すのを見たと、ご自身の伝記の中に書いています。

行尊は、修験者として、天台宗の円城寺で厳しい修行を受けるのですが、その円城寺が行尊が26歳だった1081年、比叡山延暦寺の僧兵たちの襲撃を受けて全焼させられてしまうのです。
延暦寺も天台宗、円城寺も天台宗です。
同じ天台宗どおしなのに、どうして争そったのかというと、延暦寺が天台の総本山なら、円城寺は、その天台の教えに日本に古くから伝わる古神道の教えを融合させた、いわば天台の変形、もっというと、日本の古神道に天台を融合させた日本型天台宗であったわけです。
つまり、正当派渡来仏教の旗手である延暦寺と、古神道と渡来仏教の融合を図った円城寺という関係で、きわめて両者は仲が悪かったのです。というか一方的に延暦寺から円城寺が嫌われるという関係だったようです。

円城寺で修行中だった行尊にしてみれば、多分に理不尽を感じたことでしょう。けれど行尊は修行を続け、修験道として、白河院や待賢門院の病気平癒や物怪調伏などに次々と功績をあげる、実力者になっていきます。
そしてついに円城寺の権僧正にまで登る。
ところが67歳のときに、再び円城寺が比叡山の僧兵たちによって、焼き討ちされてしまうのです。

行尊は、焼け野原となった円城寺で、その年、トップの地位である僧正になります。
そして円城寺を再建し、81歳でお亡くなりになる。
その亡くなるときの逸話がすごくて、ご本尊の阿弥陀様に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら眼を開け座したままの姿でお亡くなりになっていたのだそうです。鬼気迫る気魄を感じます。

さて、この歌ですが、行尊は、もともとご皇族で、修験の道にはいるまえまでは、和歌の達人で教養のある人でしたから、修験者になってからも、たびたび宮中の歌会に歌人として招かれています。
そういうわけで、行尊が遺した歌は数々あるのですが、ただ、それぞれの歌がいつ詠まれた、つまり、行尊の年齢がいくつくらいで、どの場所でどの歌を詠んだかといった情報は、ほとんど伝わっていません。

ですのでこの歌も、行尊がいつ頃、どこで詠んだ歌なのはか、まったくわかっていないのですが、歌意から、おそらく若い修業時代の作品であろうと言われています。

歌は、『行尊大僧正集』には、次のように書かれています。
(山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを
 折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし

また別な『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)によると、歌詞として
「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」と書かれています。

どういう意味かというと、「大峯」というのは吉野から熊野にかけての山脈のことです。
おそらくは熊野の山中で、大嵐で折れて倒れかかった山桜の木が、それでもしっかりと花を付けている様子を見て読まれた歌である、ということです。

思いがけずそんな山桜を見た行尊が、嵐に枝を折られながらも、それでも健気に咲いている山桜を見て、深い山中で、あんなに一生懸命に花をつけていても、おそらく誰にもそんな姿を鑑賞する人などいないのに、それでも花をつけている。
そんな山桜の姿に、焼き討ちにあって何もかも失ってしまっても、それでもその焼け野原から、また立ち上がろうとする思いを、この歌に込めて詠んだということがわかります。

小倉百人一首の選者である藤原定家は、この行尊の歌を、相模の歌の次に配置しました。
相模は、夫の浮気に泣きながらも、それでも家を支え、子を守ろうとした健気な女性です。
その相模は、「名こそ惜しけれ」と詠みました。

そして続く66番では、度重なる理不尽に寺を焼かれた若き日の行尊が、何もかも焼かれても、山桜が嵐に枝を折られても、それでも尚、花を咲かせている姿を山中でたまたま見かけ、どんなことがあっても、決してくじけず、努力を重ねて行こうという決意をあらわした歌を配置しているわけです。

「花よりほかに知る人もなし」

山桜がそこでがんばって咲いている姿は、その山桜しか知らない。
誰もみていなくても、誰からも評価などされなくても、人がみていなくても、ただ一途に自分にできることに精進する。

行尊が生きた時代は、11世紀ですので、ちょうどいまから千年前です。
けれど、その千年前にも、度重なる不幸があっても、それでもそこから誠実に立ち上がろうとした人がいて、そしてその人は、数々の勲功をあげ、晩年には大僧正にまで出世する。

そしてそこまで出世しても、行尊は、高齢の身でありながら、ただ一途に阿弥陀様の前で経を唱えながら、眼を開け、座したままで死んで行ったのです。

生きるということは、苦しみの連続だし、人生は、途中で何もかも失ってしまうという、厳しいことさえあるわけです。
それでも、一途に生き通す。
それが、大和人の生きる道と、この歌は教えてくれています。

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