本朝を護る
71番歌 大納言経信(だいなごんつねのぶ)
夕されば門田の稲葉訪れて
蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く
ゆうされは
かとたのいなは
おとつれて
あしのまろやに
あきかせそふく
============
(現代語訳)
夕方になると門前の田んぼの稲穂に風が当たってサラサラと音がし、訪れた芦葺きのまるい屋根の仮小屋にも秋風が吹きますな。
(ことば)
【夕されば】時刻が移り変わって夕方になれば。
【門田】門の前に広がる田んぼ。
【訪れて】訪問するという意味と、音を立てるという意味があります。
【蘆のまろ屋】蘆は植物の葦(芦)のこと。「まろ屋」は、芦のまろ屋ですから、屋根が芦葺きでできた草屋根の建物であるとわかります。それが「まろ」ですから、カタチが丸みを帯びている、つまり丸みを帯びた草屋根の小屋を意味します。
(作者)
大納言経信は、宇多源氏に連なる人で、武人でありながら最後には正二位大納言で参議にまで名を連ね、82歳まで生きた人です。
名前は源経信(みなもとのつねのぶ)といいます。
源経信は、武芸に秀でているだけでなく、たいへんな学問のあった人で、歌会にも度々出場しているのですが、面白い逸話があります。
ある日、源経信が和歌をつくって詠んでいたところ、風流を好んだ朱雀門院の鬼がやってきて源経信の前で漢詩を吟じたというのです。
江戸時代の末期に歌川国芳(うたがわくによし)がこのシーンを絵にしていて、それが下の絵です。
ごらんいただくとわかりますように、恐ろしい妖怪がやってきたのですけれど、源経信はさすがは武人で、なんの動揺もみせず、実に堂々と鬼の様子を、むしろ楽しんで見ているかのようです。
一方、鬼は真っ赤な口を開け、そこから(おそらく臭いであろう)息を吐き出していますが、その息にはなにやら漢詩のようなものが書かれています。
![源経信と鬼(歌川国芳)]()
この絵やこの逸話が象徴しているのは、源経信が堂々たる武人であり教養人であるということだけでなく、実は支那で生まれた漢詩が鬼のもの、つまり鬼の詩であるということをも象徴しています。
繰り返しになりますが、この絵が描いているのは、まずは源経信が鬼にも動じない猛者であるということです。
ただ同時に、それだけではなくて、百人一首の歌人たちの時代というのは、江戸時代と同じく日本は事実上の鎖国をしていた時期にあたります。
そしてなにより日本独自の文化を再構築していこうという時代でもあったのです。
ヨーロッパではルネッサンス運動といえば、14世紀から16世紀に起こった「古代ギリシア、古代ローマ時代の文化を復興しようとする文化運動」ですが、これとまったく同様の運動が、7世紀から14世紀にかけての日本で、日本独自の古典的文化を取り戻そうという文化運動が起こり、それが百人一首に代表される和歌を基調とした国風文化運動だったわけです。
つまり、奈良・平安時代の国風文化運動というのは、実は西洋でいうルネッサンス運動と同じ復古運動であり、しかもそのことが日本では西欧よりも700年も古くからはじまり、西欧よりも500年も長く続いたということなのです。(←このこと、結構大事なポイントです。)
ちなみにこの絵は、そういう意味からもとても素晴らしい絵なのですが、なぜか国宝とはなっていません。
そんなところにも戦後の日本の歪みが垣間みれるような気がします。
(歌意)
さて、この歌の解釈です。
歌の一義的な意味、つまり文字面上の意味は、「夕方、門前の田んぼや、わが家にも秋風が吹きますな」というだけのものです。
この歌には『金葉集』歌詞があって、そこには「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへる事をよめる」とあります。
源師賢の仮小屋に、みんなで集まって、そこで「田んぼ、仮小屋、秋風」のお題で歌を詠み合ったときのもので、源経信は、まさにそのお題を全部まとめて一首の歌にきれいに詠み込んだ叙景歌であるというわけです。
そのように読んでも、それはそれで美しい歌です。
しかし、よく見ると、この歌は「夕されば門田の稲葉訪れて」と、「稲穂」ではなく「稲葉」に風が吹いていると
書いています。
稲は、秋に収穫のために稲刈りをしますが、ということは「稲葉に風」ですから、田は、まだ収穫前の田であることがわかります。
さらに、「稲穂」ではなく「稲葉」であることから、まだ穂先が十分に育っていない前の稲、つまり秋風とはいっても、まだ稲穂の小さな、夏の終わりから秋の初めにかけての秋風であることがわかります。
これが何を意味するかというと、稲が育っている途上であり、稲がもう少ししたら収穫できる、稔りの秋を迎えることが出来るという、いちばん大きな、期待に胸膨らむ季節を指しているということです。
実際に田んぼに行ってみたらわかりますが、苗代で苗を育て、田植えをし、その稲がどんどん大きく育って行って、いよいよ穂先に実がつきはじめる。
その実は、はじめのうちは、まだまだ小さいです。ですから軽い。軽いから稲はまっすぐに立っています。
ところがだんだんその実が大きくなってきて、穂先が垂れてくる。
よくいう「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」の状態になります。
この源経信の歌は、そんな稲穂が垂れてくる前の、まだ稲穂が天を向いている、そんな状態のときの歌です。
そしてその時期は、一年のうちで、農家が一番、期待に胸を膨らませる時期です。
そして、そのような状態の田んぼの稲葉を前にして、歌を詠みあっているのは勇敢な「武人の」源経信であり、場所もやはり「武人の」源師賢の仮小屋です。
そしてその武人たちが、粗末なまろ屋に住んででも護ろうとしているもの、それが農家の田畑であり、収穫であり、今年の豊作に期待していちばん胸を膨らませている農家の人たちなのです。
そしてそんな農家の人たちを、収穫を、田畑を護るのが武人の役割です。
ですからこの歌は、ただ「田んぼに秋風が吹きますな」と詠んでいるのではなくて、その真意にあるものは、そういう、「人々の生活を護るのは俺たちなんだ」という強い自覚と誇りが、その日源師賢の仮小屋に集まった男たちに共通する思いであったことにあります。
だからこそ、この歌は「名歌」の仲間入りをしています。
そしてそのことは、藤原定家の歌の順番によって、一層、歌意が強調されます。
69番の能因法師は、我が国の政治はたとえ争い事があっても、それ自体がまるで錦のように美しいと詠みました。
70番の良暹法師は「いづくも同じ秋の夕暮れ」と、一見、寂寥感を詠ったように見せかけながら、実はその秋の夕暮れには、様々な命が息づき、それらが渾然一体となって大自然を構築している。悩みや苦しみがあっても、それらをぜんぶひっくるめて、美しいと詠みました。
そして71番の源経信は、稲葉を、農家のみなさんの期待を、生命を、財産を、護るのは俺たちだ、と詠んでいるわけです。
ここに、「民こそがおおみたから」とする、わたしたちのシラス国の根幹があります。
ちょっとむつかしい言葉になりますが、わたしたちの国は、「天壌無窮の神勅」による「豊葦原の瑞穂の国」だからです。
そしてこの歌には、まさにその「葦(蘆)」が、まさに詠み込まれています。
さらに定家は、この歌を詠んだ歌人の名を、「源経信」ではなくて、「大納言経信」と書きました。
定家が歌人の名前に役名を入れるときというのは、その歌は単に私的な情感を詠っているのではなくて、かならずそこにその歌人の職に関する事柄が詠み込まれていることを示唆しているときです。
その意味からも、この歌は、単に「秋風が涼しいね」と吞気なことを詠んでいるのではなくて、もっと別な何かを、ここから読み取らなければならないということがわかります。
そしてこの歌は、君も臣も民も、みんなが一緒になって、互いの役割をこなしながら、国を守り、稲を育て、みんなが生きて行く。それが日本の国のカタチであることを、見事に謳い揚げているのです。
さて、次回は、大納言経信、祐子内親王家紀伊、前権中納言匡房の三首です。
いったいどのような歌意を私たちに見せてくれるのでしょうか。
乞うご期待です。
71番歌 大納言経信(だいなごんつねのぶ)
夕されば門田の稲葉訪れて
蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く
ゆうされは
かとたのいなは
おとつれて
あしのまろやに
あきかせそふく
============
(現代語訳)
夕方になると門前の田んぼの稲穂に風が当たってサラサラと音がし、訪れた芦葺きのまるい屋根の仮小屋にも秋風が吹きますな。
(ことば)
【夕されば】時刻が移り変わって夕方になれば。
【門田】門の前に広がる田んぼ。
【訪れて】訪問するという意味と、音を立てるという意味があります。
【蘆のまろ屋】蘆は植物の葦(芦)のこと。「まろ屋」は、芦のまろ屋ですから、屋根が芦葺きでできた草屋根の建物であるとわかります。それが「まろ」ですから、カタチが丸みを帯びている、つまり丸みを帯びた草屋根の小屋を意味します。
(作者)
大納言経信は、宇多源氏に連なる人で、武人でありながら最後には正二位大納言で参議にまで名を連ね、82歳まで生きた人です。
名前は源経信(みなもとのつねのぶ)といいます。
源経信は、武芸に秀でているだけでなく、たいへんな学問のあった人で、歌会にも度々出場しているのですが、面白い逸話があります。
ある日、源経信が和歌をつくって詠んでいたところ、風流を好んだ朱雀門院の鬼がやってきて源経信の前で漢詩を吟じたというのです。
江戸時代の末期に歌川国芳(うたがわくによし)がこのシーンを絵にしていて、それが下の絵です。
ごらんいただくとわかりますように、恐ろしい妖怪がやってきたのですけれど、源経信はさすがは武人で、なんの動揺もみせず、実に堂々と鬼の様子を、むしろ楽しんで見ているかのようです。
一方、鬼は真っ赤な口を開け、そこから(おそらく臭いであろう)息を吐き出していますが、その息にはなにやら漢詩のようなものが書かれています。

この絵やこの逸話が象徴しているのは、源経信が堂々たる武人であり教養人であるということだけでなく、実は支那で生まれた漢詩が鬼のもの、つまり鬼の詩であるということをも象徴しています。
繰り返しになりますが、この絵が描いているのは、まずは源経信が鬼にも動じない猛者であるということです。
ただ同時に、それだけではなくて、百人一首の歌人たちの時代というのは、江戸時代と同じく日本は事実上の鎖国をしていた時期にあたります。
そしてなにより日本独自の文化を再構築していこうという時代でもあったのです。
ヨーロッパではルネッサンス運動といえば、14世紀から16世紀に起こった「古代ギリシア、古代ローマ時代の文化を復興しようとする文化運動」ですが、これとまったく同様の運動が、7世紀から14世紀にかけての日本で、日本独自の古典的文化を取り戻そうという文化運動が起こり、それが百人一首に代表される和歌を基調とした国風文化運動だったわけです。
つまり、奈良・平安時代の国風文化運動というのは、実は西洋でいうルネッサンス運動と同じ復古運動であり、しかもそのことが日本では西欧よりも700年も古くからはじまり、西欧よりも500年も長く続いたということなのです。(←このこと、結構大事なポイントです。)
ちなみにこの絵は、そういう意味からもとても素晴らしい絵なのですが、なぜか国宝とはなっていません。
そんなところにも戦後の日本の歪みが垣間みれるような気がします。
(歌意)
さて、この歌の解釈です。
歌の一義的な意味、つまり文字面上の意味は、「夕方、門前の田んぼや、わが家にも秋風が吹きますな」というだけのものです。
この歌には『金葉集』歌詞があって、そこには「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といへる事をよめる」とあります。
源師賢の仮小屋に、みんなで集まって、そこで「田んぼ、仮小屋、秋風」のお題で歌を詠み合ったときのもので、源経信は、まさにそのお題を全部まとめて一首の歌にきれいに詠み込んだ叙景歌であるというわけです。
そのように読んでも、それはそれで美しい歌です。
しかし、よく見ると、この歌は「夕されば門田の稲葉訪れて」と、「稲穂」ではなく「稲葉」に風が吹いていると
書いています。
稲は、秋に収穫のために稲刈りをしますが、ということは「稲葉に風」ですから、田は、まだ収穫前の田であることがわかります。
さらに、「稲穂」ではなく「稲葉」であることから、まだ穂先が十分に育っていない前の稲、つまり秋風とはいっても、まだ稲穂の小さな、夏の終わりから秋の初めにかけての秋風であることがわかります。
これが何を意味するかというと、稲が育っている途上であり、稲がもう少ししたら収穫できる、稔りの秋を迎えることが出来るという、いちばん大きな、期待に胸膨らむ季節を指しているということです。
実際に田んぼに行ってみたらわかりますが、苗代で苗を育て、田植えをし、その稲がどんどん大きく育って行って、いよいよ穂先に実がつきはじめる。
その実は、はじめのうちは、まだまだ小さいです。ですから軽い。軽いから稲はまっすぐに立っています。
ところがだんだんその実が大きくなってきて、穂先が垂れてくる。
よくいう「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」の状態になります。
この源経信の歌は、そんな稲穂が垂れてくる前の、まだ稲穂が天を向いている、そんな状態のときの歌です。
そしてその時期は、一年のうちで、農家が一番、期待に胸を膨らませる時期です。
そして、そのような状態の田んぼの稲葉を前にして、歌を詠みあっているのは勇敢な「武人の」源経信であり、場所もやはり「武人の」源師賢の仮小屋です。
そしてその武人たちが、粗末なまろ屋に住んででも護ろうとしているもの、それが農家の田畑であり、収穫であり、今年の豊作に期待していちばん胸を膨らませている農家の人たちなのです。
そしてそんな農家の人たちを、収穫を、田畑を護るのが武人の役割です。
ですからこの歌は、ただ「田んぼに秋風が吹きますな」と詠んでいるのではなくて、その真意にあるものは、そういう、「人々の生活を護るのは俺たちなんだ」という強い自覚と誇りが、その日源師賢の仮小屋に集まった男たちに共通する思いであったことにあります。
だからこそ、この歌は「名歌」の仲間入りをしています。
そしてそのことは、藤原定家の歌の順番によって、一層、歌意が強調されます。
69番の能因法師は、我が国の政治はたとえ争い事があっても、それ自体がまるで錦のように美しいと詠みました。
70番の良暹法師は「いづくも同じ秋の夕暮れ」と、一見、寂寥感を詠ったように見せかけながら、実はその秋の夕暮れには、様々な命が息づき、それらが渾然一体となって大自然を構築している。悩みや苦しみがあっても、それらをぜんぶひっくるめて、美しいと詠みました。
そして71番の源経信は、稲葉を、農家のみなさんの期待を、生命を、財産を、護るのは俺たちだ、と詠んでいるわけです。
ここに、「民こそがおおみたから」とする、わたしたちのシラス国の根幹があります。
ちょっとむつかしい言葉になりますが、わたしたちの国は、「天壌無窮の神勅」による「豊葦原の瑞穂の国」だからです。
そしてこの歌には、まさにその「葦(蘆)」が、まさに詠み込まれています。
さらに定家は、この歌を詠んだ歌人の名を、「源経信」ではなくて、「大納言経信」と書きました。
定家が歌人の名前に役名を入れるときというのは、その歌は単に私的な情感を詠っているのではなくて、かならずそこにその歌人の職に関する事柄が詠み込まれていることを示唆しているときです。
その意味からも、この歌は、単に「秋風が涼しいね」と吞気なことを詠んでいるのではなくて、もっと別な何かを、ここから読み取らなければならないということがわかります。
そしてこの歌は、君も臣も民も、みんなが一緒になって、互いの役割をこなしながら、国を守り、稲を育て、みんなが生きて行く。それが日本の国のカタチであることを、見事に謳い揚げているのです。
さて、次回は、大納言経信、祐子内親王家紀伊、前権中納言匡房の三首です。
いったいどのような歌意を私たちに見せてくれるのでしょうか。
乞うご期待です。